運がよくなるには「神様に愛される生き方をする」こと

平成30年2月11日の日本を知る会、講師は寺岡賢氏(公益財団法人修養団 講師)でした。

経営者でも運動選手でも、世の中で成功するには、能力があるだけじゃダメ。運がよくないと。と氏は言います。

運がよくなるのはどうしたらいいか、それには「神様に愛される生き方をすること」だというのです。

自分さておき人様に 己忘れて精魂尽くす

そんな人を神様は愛し、その人に幸運を授けてくれるといいいます。

日本人は何かの折に天気がいいと「みなさんの心がけがよいおかげで、今日は晴天に恵まれました」などと言いますね。

心がけがよい人に対しては、神様は晴天という幸運を授けてくれるわけです。

そのためには常日頃、自分を磨くことが大切。「みがく」は「身が苦」にも通じ、艱難辛苦を通してこそ、人は磨かれ、玉のように輝くようになる、といいます。

そうしたことを誰よりも真剣に考えて実践しておられるのが、天皇陛下である、と寺岡氏は言います。

三種の神器の「鏡」「剣」「勾玉」は、みな磨いてこそ光るもの。それも、自分を磨くことの大切さの象徴と考えることもできます。

そして、天皇陛下は日本国の代表であるご自分の心がけ次第で、日本国に幸運がもたらされたり、災いが起きたりする、と考えておられ、常にみなみなの無事を祈っておられるのです。

罪あらば 我を咎めよ天津神 民は我が身の生みし子なれば

罰するのであれば、どうか自分を罰してください。国民は自分の子どもなのですから。と天の神様に願う気持ちを謳った明治天皇の御製です。

歴代の天皇陛下は常に、国民を自分の子どもである、宝である、と考えて、その平穏無事を神に祈ってこられました。

毎年元旦、天皇陛下は夜も明けきらぬうちから、皇居の宮中三殿に附属する神嘉殿(しんかでん)の南庭で吹きさらしの地面に座り、日本の安泰と国民の幸せを祈られます。そして、この1年の間に、仮に何かこの国に災いが起るのであれば、国民ではなく、わが身の上に起こるように、と祈られるのです。

自分の子どもが病気などで苦しんでいると、世間の親は「できることなら代わってやりたい」と言います。天皇陛下は国民全体に対して、それと同じ慈愛の心を持っておられるのです。

だから終戦時、疲弊した国情の中で不作が予想され、餓死者が国民の1割くらい出るのでは、と危惧される中、昭和天皇は連合国総司令官マッカーサーに会い、「自分の身はどうなっても構わないから、国民を助けてほしい」と願い出たのも当然のことでした。

しかし、それを聞いたマッカーサーは大変に驚き、かつ感動したといわれています。敗戦国のトップが会いに来るのであれば、命乞いに来るに決まっている、と彼は考えていたのでした。

「損か得か」でなく「徳か不徳か」を規範に行動する。これぞ日本人本来の美点であるといえましょう。

昭和天皇は終戦後、国民を励ますための旅に出られ、全国を御巡幸されました。

大陸からの引き揚げ者や戦災孤児のことを大変に気にしておられた昭和天皇は、引き揚げ孤児の寮がある、佐賀県の因通寺というお寺を訪問されました。

このときの様子は別のブログから転載させていただきます。

~~以下、ブログ「ぼやきくっくり」より転載~~

寮に入るなり、天皇は子どもたちに親しく声をかけつつ進んだ。
子どもたちも、この優しげな紳士をいたく気に入ったらしく、ゾロゾロと後をついて回った。
天皇は、禅定の間といわれる部屋の前で足を止め、ある女の子を見つめて時を忘れたように佇んだ。
侍従長は心配になった。
京都御所発輦(はつれん)以来、一日の休みもなく巡幸を続け、洗心寮は福岡県から佐賀への入境早々の行幸先だった。
ふいに胸が高鳴る。
が、やがて天皇は引き込まれるようにして話しかけた。
見ると、女の子が手にしていたのは位牌だった。
「お父さん、お母さん?」
天皇は話しかけた。
位牌は二つだった。
「はい。これが父と母です」
女の子は答えた。
「どこで?」
「父はソ満国境で、母は引き揚げの途中です」
「お淋しい?」
女の子は口元を引き締めた。
「淋しくありません。私は仏さまの子どもですから」
天皇は少し驚いて女の子の目を見つめたが、女の子はひるまずに続けた。
「仏さまの子は父にも母にも、お浄土でもう一度、会えるんです。だから父や母に会いたくなったら、私は仏さまに手を合わせます。そして父と母の名前を呼ぶんです。すると父も母も、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるんです。私は淋しくありません。私は仏の子です」
天皇は女の子をしばらく見つめたあと、部屋に入った。
右手の帽子を左に持ち替え、空けた右手で女の子の頭をゆっくり、時間をかけて撫でつつ、なおも話しかけた。
「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育ってくださいね」
言うなり、大粒の涙が一つ、二つ、こぼれ落ちる。
すると、ふいに女の子は呼んだ。
「お父さん?」
そこにいた大人たちは、言葉をなくして顔を覆った。
海千山千の新聞記者までが、嗚咽を抑えられない始末だ。
もはや天皇はあふれる涙を隠そうともしない。
天皇にはこらえられぬ事のない剛の風を備えた武人の一面もあった。
が、この時ばかりは、ついにこらえるのをあきらめてしまったようだった。
寮を去るまで付いてきてしまった大勢の子どもたちに見送られ、天皇は因通寺を後にした。
<「日本の天皇—国難と天皇の歴史」(徳間書店)第一部 日本人として知っておきたい「国難」と天皇の歴史(監修/松崎敏彌)より>
皇居にお帰りになられた昭和天皇は、この時のことをこう詠まれました。
「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」

~~以上、ブログ「ぼやきくっくり」http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1047.html より転載終わり~~

寺岡氏からは他にもいろいろとよいお話しを伺えたのですが、この日のわたしにとって、一番印象に残ったのは、冒頭の「運がよくなるためには、神様に愛される生き方をすること」という部分でした。

わたしの自然食の教室(サステナ・フード教室)の生徒数は増えたり減ったりしており(15人~2人)、その理由がずっとつかめずにいたのですが、それを聞いてわたしは腑に落ちたような気がしたのです。

これまでで一番生徒数が増えたのは、「サルでもわかるTPP」を発表して半年ほど経ったとき。これは一時期は10万ツイートを超えるほど拡散され、TPPが何なのか、国会議員すらほとんどわかっていなかったときに、世間に警鐘を鳴らすうえでそれなりに役に立ったかと思っています。

では、生徒さんがみな「サルでもわかるTPP」をインターネットで見て、それでわたしの教室を知ったのかというと、全然そんなことはなくて、知らない人がほとんどだったりするのです。

その次の波は「サルでもわかる子宮頸がんワクチン」を発表して半年ほど経ち、書籍も完成してじきの頃。

味噌ワークショップで2日間16人の定員がすべて埋まったのは、DVD「遺伝子組み換えルーレット」の日本語版字幕監修の手伝いを終えて間もない頃。

収入になる見込みはないけれど、今、世の中にどうしても必要だ、これが世の中の役に必ず立つ、と信じてやったことに対する、神様からのご褒美だったのかなー、と今になって思えてきました。

そう考えると、迷いが消えます。料理教室に来る生徒さんはこむずかしい政治の話なんか聞きたがらない人も多いし、もっと「おいしい」「楽しい」「ヘルシー」な情報だけを発信したほうがいいんじゃないか、と思ったり、そういうアドバイスを受けることもあるのですが、でもそれはわたしの生きる道ではない、ということです。

自分が正しいと思うこと、世の中に必要だと思うことを、迷わず発信していかなければ。誤解を受けたり、一部の人に敬遠されたりするのを恐れていてはダメ。打算はしない。自分の信じる道を進んでいこう。生涯皇室の藩屏たらんとした乃木希典の遺族として、その志を継ぎ、皇室のありがたさを知らない現代人にそれを伝えていくこともわたしのお役目のひとつだ、と思えるようになりました。

迷いを吹き飛ばしてくださった講師の寺岡さま、ありがとうございました。

会場の湯島天神ではもう梅まつりが始まっていて、境内にはかぐわしい香りが漂っていました。

集合写真倫子先生より

梅ー倫子先生より

(上記写真2点、安田倫子先生のFBより拝借しました♪)