2度目の勤労奉仕で11月末の4日間、皇居に行ってきました。
勤労奉仕とは名ばかりで、皇居内を案内していただく時間のほうが多いくらいのありがたいもの。広大な皇居と赤坂御用地内で江戸城の跡や各種の建物など、せっかくいろいろ案内いただいたので、備忘録を残しておきたいと思います。残念ながら撮影は禁止なので、勤労奉仕中の写真は専属の写真家による集合写真だけとなります。
皇居の中は大変に広く、一般の人も入ることができる東御苑、一般参賀などでおなじみの宮殿地区、御所のある西地区に大別されます。
勤労奉仕団が入るのは桔梗門です。
↓桔梗門前で待機中。警官が名簿と身分証明書の照合を厳密に行います。
そこから江戸城の本丸跡(今は芝生の広場となっています)に行くにはいくつもの検問所のようなところ=番所を通ります。
最初に通るのは同心番所。与力・同心がここに詰めて、門を警護していました。瓦は屋根の角の部分は徳川家の家紋である葵の御紋ですが、その他の部分は三つ巴紋となっており、これは江戸時代の最大の脅威である地震・雷・火事を避けるための魔除けの意味が込められています。
次が百人番所。伊賀組、甲賀組、根来組、他1組の計4組からそれぞれ25人ずつが詰めていたということで、間口の広い大きな建物になっています。
その向かい側の石組みは他とは少し違っていて「切込み剥ぎ」と呼ばれる手法を使い、御影石と安山岩でできています。
さらに大番所を通ります。ここは与力・同心の中でも特に身分の高い人が詰めていたといわれています。
中雀門(ちゅうじゃくもん)は、幕末の1863(文久3)年の火災で本丸が焼けた際に焼失し、その跡だけが残っていますが、周囲の石組みまでも黒く焦げ、表面がボロボロになっており、火災の熱のすさまじさを感じさせます。
本丸は、将軍が執務をする「表(おもて)」、生活をする「中奥(なかおく)」、正室・側室・奥女中などのいる「大奥(おおおく)」の3つの部分に分かれていました。
今は芝生の広場になっていますが、戦後の食糧難の時代には、畑として利用されたこともあったとか。
一画には古くからの在来の果樹を保存する果樹園もあり、柿、りんご、梨、もも、柑橘類などが植わっており、柿がたわわに実をつけていました。
忠臣蔵で吉良上野介が斬られた場所として有名な松の廊下があったところも歩きました。5m×50mほどの広大な廊下で、床は畳敷き。江戸城で2番目に長い廊下で、松の襖絵があったことから、そう呼ばれていたといいます。
今は近くに竹林があり、さまざまな種類の竹が集められています。昭和天皇のおしるしは「若竹」で、喜寿のお祝いに宮内庁職員が贈ったものが、吹上御所に植えられていましたが、それも今はこの場所に移植されています。
天守閣の跡は、少し小高くなっています。江戸城の天守閣は家康が最初に建てましたが、二代の秀忠は父を超えたいという願望からか、わざわざそれを壊してそれよりも高い天守を建てさせました。さらに、三代の家光も、それを壊して、それ以上に高い天守を建てる、ということを繰り返したのでした。4代家綱の代に、明暦の大火でその天守が焼けてしまうと、またも新たな天守を建てるべく土台となる天守台がつくられました。それが今も残る小高い場所です。しかし、今はもう天下泰平となり、戦時の物見のための高い天守は必要ない、江戸の街の復興を優先させるべき、という家臣の意見がとおり、それ以降天守が再建されることはありませんでした。
天守台の近くにある音楽堂は「桃華楽堂」。音楽好きだった香淳皇后(昭和天皇妃)還暦のお祝いに建てられたもので、屋根は鉄線の花を模した、八面体の建築となっています。
隣にある「楽部」は皇居内で雅楽を演奏する楽師のいる場所です。15歳の頃から雅楽を演奏するための特別教育を受けて養成された人々。外国の賓客を招いた宮中晩さん会などでは洋楽を演奏する機会もあるため、雅楽も西洋のクラシック音楽も両方を演奏できるよう訓練しているのだそうです。
桃華楽堂をはさんで反対側にある建物が書陵部。書庫と陵墓の管理を行う部署だそうです。
天守台の真北には北跳ね橋門、その向こうには日本武道館が頭をのぞかせています。
本丸から二の丸へと通じる道は汐見坂と呼ばれており、昔はここから東京湾が見えたようです。
二の丸には全国各地の都道府県の木が植えられた一画もあります。大きな木が育ちすぎて、小さい木に陽が当たらなくなってしまったため、最近植え替えが行われたとのことで、去年とは風景が一変していました。昭和41年にこの一画ができたときには、沖縄はまだ返還されていなかったため、沖縄の県木琉球松は後から加えられました。
その近くにある諏訪の茶屋。これは明治45年に吹上御所に建てられた茶室で、昭和に入ってから移築されたものです。
二の丸御殿は将来将軍になる子供を養育するための施設で、その周囲にある二の丸庭園は有名な小堀遠州の設計です。荒れていた庭園が再整備されたのは昭和43年。当時の設計図に基づいて整備されました。
庭園の池に泳ぐのは鰭長錦鯉(ヒレナガニシキゴイ)。インドネシアのひれの長い鯉と日本の錦鯉との掛け合わせで、今上天皇陛下の発案でつくられた品種です。
近くの菖蒲池には84品種、123株の花菖蒲が植えられており、5月下旬~6月上旬には美しく咲き乱れる花菖蒲が楽しめます。
西地区では、宮中三殿を塀の外側から拝みました。
三殿とは、皇祖天照大御神を祀る「賢所(かしこどころ)」、歴代天皇の霊を祀る「皇霊殿」、天神地祇を祀る「神殿」を指します。
付属する綾綺殿(りょうきでん)は天皇皇后両陛下が儀式の際のお召し替えや休憩などに利用される場所。東宮びん殿は皇太子皇太子妃両殿下のための場所で、それ以外の方は皇族でもみな塀の外の「参集殿」を利用することになっています。
皇居の中には天皇陛下が田植えをされる水田もあります。面積は70坪ほど。
9割はもち米のマンゲツモチ。1割はうるち米のニホンマサリを栽培しています。あわせて100kgほどの収穫があり、主に宮中祭祀の際のお供えとして利用されます。
田んぼの隣にある建物は生物学研究所。昭和3年に昭和天皇が植物を研究するために建てられたものです。今上天皇陛下も利用されますが、今では年に数回程度のご利用だそうです。
近くには桑畑もあり、皇后陛下が紅葉山ご養蚕所での養蚕に利用されています。養蚕の時期は5月初旬から6月下旬までです。
皇居内には、たぬき、ハクビシン、もぐら、蛇などさまざまな野生動物が確認されており、この日もたぬきのふんや、モグラが通った跡(土が盛り上がっている)などが見られました。
大道(おおみち)庭園は盆栽を管理する場所で、温室もあります。ここで育てられた盆栽は、宮殿で賓客を招いた晩餐会が催される際などに、宮殿に飾られます。
樹齢390年の黒松は260㎏。同じく樹齢390年の根上がり五葉松は380㎏。運ぶのはトラックでも、トラックへの積み下ろしは人力でやらなければならないため、とても大変です。木を2本くくりつけて神輿のようにして8人がかりで担ぎ上げるのだとか。
三代将軍の銘がある樹齢500年の五葉松や、樹齢600年の真柏もあります。
台風のときや雪のときには、盆栽が倒れたり折れたりしないよう、小屋の中に運び込むといいます。何十本もある巨大な盆栽を移動させるのは、さぞかし大変なことでしょう。2-3年に一度は鉢から出して、伸びすぎた根を切り、また鉢に戻す、という手入れも必要だそうで、職員の方のご苦労がしのばれます。
庭園もあれば原生林も谷もある広大な皇居と赤坂御用地すべてを約30人の園丁さんで管理しているとのこと(外部の業者さんも入っているようですが)。そんな厳しい状況の中では、わたしたちのようなのんきな勤労奉仕団も、多少は役立っているのだろう、と思うと少しほっとします。1週間に4日×500人程度が勤労奉仕に入っていますから、広い敷地の落ち葉掃きなども人海戦術であっという間に終わるのです。
赤坂御用地は紀州徳川藩の中屋敷だった場所が皇室に寄贈されたもので、皇太子殿下ご一家の住まわれる東宮御所をはじめ、秋篠宮殿下やその他の他の皇族方のお住まいが点在しています。御用地の隣にある迎賓館も、元は同じく紀州徳川藩の中屋敷だった場所なのですが、現在は内閣府の管轄となっているため、塀で仕切られていて行き来することはできません。
御用地内には池を囲んだ美しい日本庭園があり、鴨や白鷺などの水鳥も池を訪れています。ちょうど紅葉が見頃を迎え、至る所ですばらしい赤や橙の木々が目を楽しませてくれました。この御用地内の庭園こそが毎年春と秋に「園遊会」が催される場所です。天皇皇后両陛下と直接言葉を交わしたい人は、池の間を通る細い道に陣取っていると、人垣が薄いので、お言葉をかけていただける確率が高くなる、とのことでした。いつかそんな機会に恵まれたいものですね(笑)。
↓赤坂御用地を出て、地下鉄駅付近で記念撮影
宮内庁の建物は昭和10年の建設で、クラシックな風情のある建物です。ここには約千人の職員が働いており、それとは別に約千人の皇宮警察職員が警備をしています。
宮殿は昭和20年に戦災で焼失し、昭和39年になってからやっと再建に着手し、昭和44年に完成しました。天皇皇后両陛下のご結婚も宮殿がなかったため、宮内省内の仮宮殿で行われました。昨年の宮内庁の職員の方のお話しでは、昭和天皇の御所も一部戦災で損失したけれども、国中が戦災で大変なのだから、自分の住まいの手入れなど後回しでよいのだ、とおっしゃって、なかなか直させなかったとのこと。宮殿の再建を後回しにしたのも、同じようなお気持ちの表れだったのでは、と拝察します。
宮殿の建築は日本の伝統的な建築と調和しつつ、耐震性の高い強度のあるものを、という趣旨で建てられたのかもしれませんが、ちょっと風情にかけて味気ないのが残念です。宮殿の周りにいくつも立つ、有田焼き?だったかの灯篭も、のべーっとした黄色いキノコのようで、デザインセンスゼロ。建物の建て替えは無理でも、あの灯篭だけは取り換えるか、撤去してほしい、と個人的には思います。
勤労奉仕の最終日には天皇皇后両陛下の「御会釈」があります。宮内庁そばの蓮池参集所に勤労奉仕団が6~7団体全員整列していると、そこに両陛下が入って来られて、各団の団長と二言三言、会話して、労をねぎらってくださいます。
両陛下の存在感は圧倒的で、間近で拝見すると、小柄なお体からオーラというか、神々しさというか、威厳や温かな慈悲の心がにじみ出て輝いているかのように感じられます。皇后陛下の限りなくやさしいお声で「ありがとう」と言われると、その慈愛が胸に浸み込んでじわーと心が温まります。天皇陛下はお歳で公務を続けるのが困難だとご譲位を希望されているくらいなのに、オリンピック選手でもなんでもない、本当のただの庶民のわたしたちにも、こんなにも真摯に接してくださるのだと思うと、もったいなさ、ありがたさが胸に迫ります。熊本から来た団の団長さんには地震の被害や現在の様子などを尋ねられ、苦境にある国民を励ますことがご自身の使命だと感じていらっしゃるご様子がうかがえました。その役割を陛下は存分に果たされていると感じます。今年も貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。すめらぎ、いやさか。