鹿島神宮に行って来ました。皇紀元年、神武天皇の勅命によって創建されたと伝わる、由緒ありまくりの神社です。
ご祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。古事記では建御雷神(たけみかづちのかみ)と記されます。これは建天照大御神(あまてらすおおみかみ)から葦原中国(あしはらのなかつくに)平定のため、出雲に遣わされた神です。
建御雷神(たけみかづちのかみ)は、出雲の国に降り立って、十掬剣(とつかのつるぎ)を逆さに突き立て、その切っ先の上にあぐらをかいて、大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを迫りました。
大国主は、自分の子の意向を尋ねてほしい、と返事します。
長男の事代主(ことしろぬし)は、承諾しましたが、次男の建御名方(たけみなかた)は承知せず、建御雷神(たけみかづちのかみ)に戦いを挑みます。
しかし、建御雷神(たけみかづちのかみ)は投げ飛ばされて、敗けてしまいます。
この2柱の神の戦いが、相撲の起源ともいわれています。
鹿島神宮は、重要なレイライン(古代遺跡をつなぐ線)がいくつも通るという点でも、東国随一の神社といわれます。
たとえば、まっすぐ西をたどると、ほとんど同じ緯度に諏訪大社があります。
そして、諏訪大社のご祭神は建御名方(たけみなかた)。
神話の時代からの因縁を感じさせる立地となっています。
奥宮へ通じる道は太い木々が立ち並ぶ鬱蒼とした森になっています。
御手洗池は透明過ぎるほど透明な水の上に、大きな木が張り出していて、周りも緑に囲まれた、夢のように美しい池でした。見ているだけで心洗われる思いです。
午後三時、還幸祭が始まりました。御神輿が出立する神幸祭が午前十時からあったのに対し、御神輿が帰路につき御分霊が本殿にお戻りになる祭儀が還幸祭なのだそうです。
お祓いや祝詞の奏上などがあった後、時代装束を着けた人々の大行列が神社から通りへ出て辺りを練り歩きます。
宮司さんが行列の参加者の名を呼びあげるなか、唯ふたつだけ聞き取れたのが、この「猿田彦(さるたひこ)」と「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」。
猿田彦とは一本歯の下駄を履いていますが、慣れないらしく、よろよろしているのがご愛敬。この二柱の神さまがいるということは、天孫降臨(てんそんこうりん)を表した行列なのかしら、とも思いましたが、詳しい説明はなくて、残念ながら詳細はわかりません。
鹿嶋の文字の上にある星座のようなマークはなんでしょう!? これがシュメール文字だったりすると、またおもしろいですが、わたしにはわかりません。
神社への参道には巨大な神像を載せた山車が控えていました。武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と木花之佐久夜毘売(このはなさくはひめ)です。
ぶらぶらしている地元の人は男性も女性も法被姿がほとんど。女性はきれいに髪を結ったうえに、注連縄のような独特の鉢巻きを載せるのが定番のようです。普段着の子どもはほとんど見ないほどで(普段着の大人はおそらくやや遠方からの観光客)、お祭りが地元の人の暮らしに密着していることが伺えました。街中総出で祝うこの伝統のお祭りを、ぜひいつまでも続けていってほしいものです。