明治期ののどかな東京が興味深い「九十媼の記憶と矢野家の宗旨」

3日ほど前、母の従兄が娘2人を連れて母を訪ねてきた。祖母が昭和43年に書いた原稿を持ってきてくれたのだが、それがとても興味深いので、ここに挙げておこうと思う。今回はとりあえず前半部分。(なお、文中の※はわたし⦅安田⦆が付けた注。)

九十媼(田辺こう)の記憶と矢野家の宗旨

昭和四十三年四月

長谷川君江

矢野家(二木家)の家系図

○九十媼の記憶

昭和四十三年四月、八重桜が雨にけぶっている日、昔の話をしたいからぜひ来てくれというので、埼玉県越谷市蒲生に、従姉の田辺こうを訪ねました。おばあさんは今年九十才、まだ矍鑠(かくしゃく)としています。一丁字ない(※読み書きのできない、の意)おばあさんの記憶を、七十才の私が記したものです。

話している時、「わたしが姉さん(小笠原のぶ=祖母てるが小笠原家に嫁いで生まれた人、祐太郎の義姉)のお使いで目白の不動様に何か式があったので行った時、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)(※江戸時代の大老、井伊直弼のこと)様のお妹様という方にお目にかかりましたよ」と云ったがすぐ「ああ、あれは姉のぶさんではなかった。坪井さん(宮崎家の親戚)のお供でした」といったくらい、記憶は割にたしかだと思われます。

 

○二木の家と祖父のこと

その頃(明治十二年頃)、二木の家は築地新富町1丁目の、竹葉(ちくよう)といううなぎやの前にありました。わたしの父(二木義品)は、まるっきり駄目でしたが、母が働き者で煮豆やなどやって、暮らしを立てていました。二木家は瓦解(維新)のころは祖父又六の代で、麻布三軒家(※現在の港区元麻布付近)に居りましたが、奉還金(※大政奉還の頃に、武家が家来に渡した退職金のようなもの)もすぐ使い果たし、家財道具も売り払って商売でもと思って下町に出て来たのです。然し馴れぬ商売などうまくゆく筈もなく、わたしが物心ついた頃はもう貧乏の連続でした。

元来二木家は足利の出で、先祖二木日向守源義〇というのから私の弟の義信まで三十六代、ちゃんと系図が伝わっていました。代々名乗り(※公家・武家の男子が元服するとき、幼名や通称に代えてつける名)には義の字がついています。又六おじいさんも名乗りは義のついた名だったと思いますが忘れてしまいました。紋所は丸に二引きです。永い間にはよい時もあり、浪人して困っていた時もあった様ですが、又六おじいさんの頃は幕府のお賄方につとめて居りました。

このおじいさんは大へんに親孝行な人で、父親(養父で伯父にあたる)が病気の時、寝ずの看病のうえ、どうしても治したいと日蓮様に願をかけて一代法華(※他宗派の家で一代限り法華宗の信徒となること)になりました。昔は親孝行にはご褒美を下さったもので、おじいさんは蔵前(※旗本・御家人に俸禄米を支給するお蔵役所というものが蔵前にあったらしい。その役所のことを指すものか。)から二度もご褒美を戴きました。

ご維新の時、未だ三軒家に居た時ですが、おじいさんは外出先の札の辻で官軍におわれて(そういうデマにおびえたのかもしれません)逃げ出し、とうとう下総の五井(※千葉県市原市)まで行って、百姓家にかくまって貰い、三ケ月ばかりたってやっと帰って来ました。頭に少し怪我をしておりました。

その前万延元年三月三日には、登場のため家を出て雪の中を桜田門の方へ来かかると、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)襲撃の浪士たちが血だらけで雪の中に倒れていたので、かかり合いを恐れて引き返し、半蔵門から入ったとのことでした。気の小さいやさしい人で、明治三十三年まで生きていました。

父の義品は子どもの時、重い痘瘡にかかり一度は棺桶にまで入れたのが息をふき返したという位で、顔一面のあばたで右眼は失明して、左目は三分の一位、白く濁っていました。気が弱く何事も長続きせず、一生貧乏して親類中の厄介になっていました。それが明治十年ごろには新橋の駅夫(※駅で働く雑用係のようなもの)をしていた事がありました。

 

○矢野とのつながり

矢野の伯父さん(源次郎)は、大阪北区九郎右衛門町で鼈甲屋をしていたうちの子でしたが、継母との折り合いが悪く、家を出てたった一人で東京に来て、いろいろ苦労そしてその頃は、うなぎや竹葉の出前持ちまでしていました。二木の家がそのうなぎやの前にあったので、自然親しくなっていましたが、私の父が「今度、東北線が開通したので上野駅にゆくことになったから、新橋の方の駅夫の口があくから、そのあとへ入らないか」と云って自分の後釜に入れました。伯父さんは悧巧な人だから、いつまでも駅夫なんかしていません。すぐに機関助手(火夫)の試験をうけて機関車に乗り込みました。

そうそう此の間までテレビの「旅路」(NHKテレビドラマ46年一ケ年通し、北海道を舞台の機関士の話)を毎朝見ていましたがあの通りなんですよ。

どういう風に石炭を入れたらもっと速力が出せるかなんて一生懸命研究していらっしたものです。そのころ伯母さん(てる、小笠原家に嫁し、信を一人出産)は小笠原の家に見切りをつけて帰って来て、二木の家を手伝っていましたから、働き者の伯父さんに目をつけて一緒になったのも自然のなりゆきでしょう。結婚後は木挽町に家を持って祐太郎さんが生まれましたが、間もなく伯母さんが大病になりました。何でも脊髄が悪いと云っていましたが、治ってからも弱い体になり、やがて二男保次郎さんが生まれましたので、わたしは伯母さんのところでお守りやお手伝いをするために矢野にゆきました。

 

○鉄道構内

わたしは明治十二年生まれ、祐太郎さんは十四年生まれ、保次郎さんは十九年生まれです。矢野家はみな男の子だから乱暴でしたが、わたしも負けずにお天ばをしました。

汐留の鉄道官舎はあいそめ川というどぶ川の中に、川に沿って長い橋を通して通路にし、そのうえを幾本も線路が横断していましたが、初めはこの橋が無く、上の線路を横切って官舎にまで来なければならなかったのです。だんだん汽車も多くなるのでこの橋を通したのです。この川はお浜御殿(浜離宮)の方へ流れているのですが、ひき潮の時は両岸に地面が現れるので、石垣の上から梯子を下して川の中に入り、石垣の間にいるかにを掴まえるのです。祐ちゃんに負けないと桶の中の蟹を数えていたら、折あしく伯父さんが通りかかって、とても叱られました。

それから大きな銀杏の木が二本ありました。愛宕下の昔の田村屋敷の銀杏はずうっと背が高く上の方が少し北に曲がっていて、お化け銀杏だの、幹を切ると血が出るなどと云われていましたが、鉄道構内のは二本とも大きく横に広がっていて、気味が悪い位でした。この三本の木は関東大震災のころまではあって、省線(※鉄道省が管理した鉄道。現在のJR)に乗っていてよく見えました。

原っぱも多かったですね。川向うの官舎がつきるとそこが一面の原っぱで、芝離宮の方まで続いていたと思います。その頃は東京中いたる所に原があって、今の東京駅のところも「三菱ケ原」と呼ばれて、深い草の中で殺人事件などがあったのでした。あゝそうそう、原っぱで思い出しました。官舎の若い奥さんで、たしか細谷さんといったと思いますが、悪い奴にさらわれて原っぱに引っ張り込まれた事件がありました。

わたしも丁度十四才位だったか、通りすがりに顔もよく知っている職工が、いきなり抱きかかえて原っぱの方へ駆け出すので必死になってそいつの持っていた瀬戸物の弁当箱(その頃あった三段重ねになっている)をひったくって、いきなり顔へぶつけたら、余程力が入ったと見えて痛かったんですね、思わず手を離したのでそのすきに一生懸命に逃げ出しましたよ。

その頃は原っぱのあるせいか、御浜御殿の方からやって来るのか、狐が沢山いましてね。お正月鮨屋の出前持ちが注文のすしを入れたおかもちを持ってうちへ来て蓋をあけたらからっぽなんですよ。途中で狐に取られたんですね。いろいろいたずらもしたし、夜などはピョンピョン飛んでいるのを見ました。それから尻尾の先がちぎれるのか白いまるいフワフワした毛のついたものと二度拾ったことがあります。茶色のはないんですよ。白狐なのでしょう。

祐ちゃん達のいたずらは、この原っぱで蛇を殺したり、がま蛙などは幾つも掴まえて足を紐で縛り、目へもぐさをのっけて一度に火をつけると目玉がぴょんぴょん飛び出すんだそうです。男の子って残酷なことするんですね。或る時は枯草に火をつけるとみるみるうちに燃え上がるのが面白くてだんだんやっているうち一面に広がり、今度はこわくなって、羽織をぬいで一生懸命叩き消しました。火は消えたけれど紺がすりの羽織が焼けこげだらけで伯母さんにとても叱られていました。原っぱは広いのでお正月になれば凧あげは思う存分できる。夏になれば蝉はいる、とんぼはいる。お浜御殿の傍の海だって泳ぐことができたし、魚も釣れました。全く子供の天国でした。

その頃芝公園に運動場が出来てブランコがあり、一銭出せば半日遊べたので、わたしは伯母さんに一銭とおひまを貰って出かけ、ブランコの傍にある家の屋根より高くこいだものです。(君江曰く「その頃の女の子はパンツをはいていなかったのでせう」)

「ええ、パンツなんてはいていませんよ」

矢野の家の前は、ツルベチックさんの家でした。ボスキンさんと云ふ人ともう一人、名前は忘れましたが都合三人外人技師が居ました。あれはどこの国の人でせう。イギリス人かな。日本へ汽車のことを教えに来ていたのです。ツルベチックさんの奥さんは日本人でしたが子供が五人も出来たのに、いざ帰る時になって皆置いて行ってしまいましたよ。その奥さんは子供を連れて麻布の方へ越してゆきました。ボスキンさんの方は奥さんも外人で女の子が二人ありました。可愛い子でした。

 

(また時間のある時に後編をアップする予定です)

 

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