梅満開、弘道館と偕楽園(1)

梅満開の水戸、弘道館と偕楽園に行って来ました。

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水戸といえば、水戸黄門が有名ですが、それに劣らず地元の人の崇敬を集めるのが、水戸藩九代藩主斉昭です。

その斉昭がつくった藩校が「弘道館」。幕末には日本最大の藩校として全国に名を馳せ、文館、武館、医学館、天文台等の施設を擁する総合大学のような威容を呈したといいます。

弘道館では藩士や子弟の多くが学び、幕末維新の原動力のひとつとなりました。

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多くの建物は焼失しましたが、正門↑と正庁(教職員室)↓だけは、当時のまま残っており、正庁にはゆかりの資料などが展示されています。

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正庁の建物に入ってすぐに目につくのが「尊攘」と大書された掛け軸です。

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「尊王攘夷」という思想は、ここ水戸こそが発祥の地。

水戸藩の学者、藤田東湖がその著作『弘道館述義』の中で、最初に使った言葉だとされています。

吉田松陰もここ水戸にしばらく滞在し、その思想に大きな影響を受けたといわれています。

「尊王攘夷」思想は「討幕派」を生み、次第に「佐幕派」と鋭く対立するようになっていきますが、水戸徳川家は本家の徳川幕府を否定するわけにもいかない、ということで次第に討幕派からは距離を置くようになっていきました。

が、水戸藩内部でも守旧派と尊攘派の対立が激化し、弘道館にも銃弾が飛び交う内乱となったこともありました。

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柱に残る江戸時代の弾痕↑

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弘道館を何のためにつくるのか、その理由を斉昭が自ら記した石碑の拓本↑。

これは弘道館にとってもっとも大切な根本である、ということで、弘道館の広い敷地の中心に「八卦堂」という建物を建てて納められていました。

前述の『弘道館述義』では「尊王攘夷」に続いて「神儒一致」「文武合併」と記されています。

天皇を尊崇したてまつり、神道と儒学(陽明学)を一致させ、文武合併して夷敵を打ち払い、伝統ある日本文化を保持せよ、というのがその趣旨であり、弘道館の教えの基本です。

その証拠に「皇」「神」という文字はこの石碑の中で必ず行の頭、一番上に来ています。これは「皇室」や「神様」に敬意を払うためで、そのためにそこでわざわざ改行しているのです。

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上は斉昭自筆の歌碑の拓本。万葉仮名で書かれています。

行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家流

いくすえも ふみなたがへそ あきつしま やまとのみちぞ かなめなりける

古い昔からわが国に伝わる大和の道はいつまでも変わらない大道であるからこれを堅く信じ迷い惑わされることなく 信念をもって正しく歩むように、という斉昭自作の和歌を記したもの。

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これも斉昭の詠んだ歌。斉昭は食事をするときには「農人形」という小さな人形を必ず傍らに置き、その人形のためにもお膳を備えて、常に農民への感謝を忘れないようにしていたといいます。このような心掛けを持つ藩主だったからこそ、民衆からも厚く慕われていたのでしょう。

光圀はそのおくり名を「義光」、斉昭は「烈公」といい、弘道館や偕楽園には「烈公梅」という品種の梅も植えられています。

偕楽園の六名木のひとつにも数えられる「烈公梅」↓ (ピンボケですみません)は、薄紅色のすっきりとした一重咲きの可憐な花です。

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弘道館の庭では「棒術」の稽古が行われていました。

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縁側の障子の上に掛けられた額には「游於藝」と記されていますが、これは論語から取った言葉で、学問武芸にこりかたまらず、ゆうゆう楽しみながら勉強する、という意味。

「藝」とは六藝を指し、禮(礼儀作法)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(習字)・数(算術)の6つだそうです。

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幹が地面を這うように伸びる「臥龍梅(がりょうばい)」

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斉昭には側室が9人もいて、子どもは37人もいたとのこと(!)。男の子だけでも25人で、2人目以降はみな名前に数が付けられていました。七男の七郎麻呂は、長じて後、徳川幕府最後の将軍、慶喜となりました。

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↑『大日本史』は2代藩主光圀の命によって編纂が始められたもの。神武天皇以来の日本の歴史を詳細に調査してまとめようとした光圀は自ら諸国を旅して資料を集め、また藩士を全国に派遣して、各地方の郷土史を調べさせました。光圀の死後も編纂は延々と続けられ、なんと明治になるまで続けられたといいます。これが各地の藩校などで教科書として使われたことが、光圀の名を全国的に有名にしたのでした。

 

資料室にはいろいろな展示がありましたが、中でもわたしにとって一番印象に残ったのが、医学館の講堂に掲げられていたという「賛天堂記」。これも斉昭の記したものです。

http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/images/koudoukan_image/parts/kodokan04_007.jpg

おおよその意味は……

天地の万物は、それぞれの気候風土によって育まれる。南方と北方とでは、気候風土が大きく違う。よって、そこに住む人間の性質も大きく違い、生活習慣もまた異なるのが自然の道理である。われわれの住む神国日本は、空気は澄み、寒暖もほどよく、国内で衣食住のすべてが事足りる豊かな土地である。

それなのに中世以降、海外との交易が活発になるにしたがって、海外の薬や砂糖、珍奇な獣など、珍しいものが珍重されるようになり、それを購入するために金銀銅鉄などが使われている。奇を好み、異を衒(てら)う弊害は目に余るものである。

薬は本来、自然が生み出すもので、各国にそれぞれ、その気候風土にあったものがある。海外の薬を日本で服用しても、それはわれわれの体質に合わないこともある。それなのに、海外の薬ばかりを珍重し、せっかくわが国の伝統的な医学を捨てて顧みないのは誠にもったいない。

海外の貴重な薬は高額で、金持ちしか服用できない。しかし、金持ちが百歳千歳までも生きて、貧乏人は短命なのかというと、そんなことはない。それなのに、どうして高価な薬のために金銀財宝を使うのか。神代の時代、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)は力をあわせて、天下を経営し、医薬の方を定めた。そのときに海外の薬を取り寄せたなどという話はまったくない。

わたしは昔からこの現状を嘆かわしく思っており、薬になるものや療法などを見聞きするたびに、それを集めて来た。今弘道館内に医学館を設け、医学を研究し、薬を精製するようにしよう。この医学館からわが国のあるべき医薬医療体制を発信していけば、神国日本の神国たるゆえんが理解されるようになるであろう。

というようなもの。

人間の体質と、その人間が暮らす環境とは切っても切れない深い関係にあり、その土地でその季節に採れたものを食べることこそが健康の秘訣である、という「身土不二」の考え方を、斉昭公が深く理解しておられたことがわかります。わたしも激しく賛同です。

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