雅楽を歌うという初体験

平成27年6月6日は「日本を知る会」の勉強会に行ってきた。テーマは「雅楽の間の世界と教えの工夫」。小野照崎神社(台東区下谷)宮司、小野貴嗣氏による講演だ。

この講演会で何よりおもしろかったのは、参加者全員で楽譜を見ながら雅楽を歌うという体験だった。
邦楽の譜面を見たことのある方はどれだけいらっしゃるだろうか。それは、音楽の授業などで五線譜しか見たことのない人にとっては、あっと驚くような珍奇なものだ。(しかし、日本独自の伝統文化がなぜ、当のわたしたち日本人にとって珍奇なものに見えてしまうのか、わたしたちは胸に手を当てて考えてみなければならない)
雅楽の譜面(平調越天楽)
この譜面を声に出して歌うと、こんな感じになる。

ちなみに、これは平調超天楽(ひょうぢょうえてんらく)という曲の篳篥(ひちりき)の譜面だそうだ。

参考:平調超天楽https://www.youtube.com/watch?v=BZ0lcZKFQ5M

小さい点が小拍子、黒丸が拍子で、四つ目の小拍子に拍子が来るこの曲は「早四拍子(はやよんびょうし)」の曲となります。漢数字は篳篥や笛の指穴の数だそうで、これが音階を表すことになる。
チラルロというようなカタカナには特に意味はないそうで、同じ曲でも篳篥の譜面が「チ」になっている部分が、笛の譜面では「ト」になっていたりするらしい。それは「チ」とか「タ」とかいう音の持つ雰囲気を、演奏の雰囲気(強くとか弱くとか、柔らかくとか)に反映させようという意図ではないか、とのお話しだった。この「チラルロ」というような音は「日本人が考えたものではない」というのが小野先生の見解だったが、本当にそうなのか、実は日本で考えられたものなんじゃないか、ともわたしは思うのだ。というのは「カ行」の音には硬い響きがあるため、硬い感じの意味の言葉を当てる、「ラ行」の音には柔らかい響きがあるので、柔らかい意味の言葉が当てるというようなことは世界各国の言語で共通してみられる現象なのだが、日本人は特にそういう原始的な音感を強く持っている民族だと言語学では言われているからだ(擬音語・擬態語が非常に多いのはそのため)。

日本にはこんな興味深い独特の楽譜が伝えられているのに、それを一度も見たことがない日本人がほとんど、というこの現状は、よく考えてみると非常におかしく、かつ嘆かわしいことだ。なぜ日本の学校の音楽の時間に、せっかく古来から伝えられてきた日本独自の楽譜を一切教えず、西洋の五線譜だけを教えるのか。明治維新の頃の「西洋文明に追いつけ追い越せ」という向上心と一体となるかたちで、自国の文化を劣等視する意識が存在していたとしか思えず、それがとても残念だ。
日本古来の音楽や楽譜などをもっと学校の音楽の時間に教えてほしいものだ。

さて、講演会には3人の楽師の方が来てくださり、この主旋律を奏でる篳篥と笛に、笙の和音が加わった、荘厳な演奏を聞かせてくれた。

また雅楽の歴史についての解説もあった。雅楽は中国を通して伝わった唐楽(とうがく)と、半島を通して伝わった高麗楽(こまがく)があり、中国でも韓国・朝鮮でも、その伝統は途絶えてしまったのに、日本でだけずっと守り伝えられてきたという歴史を持っている。
唐ではそもそも儒教の儀式などで演奏する「正楽(せいがく)」とそれ以外の「宴会楽」とがあったが、日本には日本独自の「正楽」があったために、唐楽は宴会楽のみが伝わった。宴会学は「胡楽」、すなわち、西アジアや中央アジアなどシルクロードの音楽を含んだものだった。
日本に本来あった楽曲は「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」と呼ばれ、皇室や神道にまつわる題材に基づいた歌や舞いで、皇室関係の行事など特殊な機会に演奏されるものが多いという。
8世紀の初頭に設けられた「雅楽寮」では、国風歌舞も含めて雅楽の伝授が行われ、神道や仏教における祭事を彩る音楽として、急速に広められていった。
日本人のための雅楽師養成所である雅楽寮が設けられる前には、大陸の音楽的センスを持つ帰化人を集めて効率的に楽師を養成するということが行われた。百済の楽師は百済人に雅楽を教える、新羅の楽師は新羅人に雅楽を教える、というふうに。
そしてそれらの百済人や新羅人を楽師として養成したのちに、日本人に教える、というふうにして、効率的に雅楽を日本中に広めて行ったのだった。
10世紀になると、「楽所(がくしょ)」と呼ばれる機関が内裏に置かれるようになり、雅楽を伝承する中心機関は雅楽寮から楽所へと移った。さらに、奈良の大きな寺院や天王寺(大阪)でも、その儀式を執り行うために楽所が設けらるようになる。笙(しょう)、篳篥(ひちりき)など、それぞれの楽器の演奏は父から子へと伝えられ、それを司る家柄は「楽家(がっけ)」と呼ばれるようになっていった。
その後、応仁の乱(1467~1477)で都が戦場になったことにより、雅楽は一時期衰退を余儀なくされたが、それを再興しようという朝廷や武家の働きかけにより盛り返し、京都・奈良・天王寺という三か所の楽所=三方楽所を中心に雅楽は伝承されていった。
明治維新にともない、三方楽所を統一するようなかたちで、雅楽局が設置され、その後宮内庁式部職楽部となって現在に至るのだという。

意外なところでは、「二の句が継げない」という慣用句が、雅楽に関係している、という話もあった。これは「朗詠」という種類の雅楽で、一の句、二の句、三の句というのがあり、「二の句」の歌い出しが高い音であるため、声が出にくいことからきているのだそうだ。

 

参考資料 宮内庁式部職楽部 雅楽の歴史

http://iha-gagaku.com/history.html