柱は神の依り代☆エジプトから日本へと受け継がれた習俗

今日は三鷹にある中近東文化センター付属博物館へ。ここは予約をしないと入れてもらえないという博物館です。
紀元前何千年もの古い文物もあり、展示物は相当に充実しています。
動物を模した素朴な古代の彫刻や器がたまらなく愛らしい。

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また、日本の縄文の土偶を彷彿とさせるような土偶も。

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ナイル川に沿ったエジプトの各都市を表す模型もあり、その中に、ルクソール神殿の写真がありました。

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ルクソールの写真に見える高い柱のようなものは、神の依り代であると考えられます。柱は神の依り代である、という考え方は、古代エジプトから、日本にまで連綿と続いており、日本では諏訪の御柱祭にそれを見ることができます。諏訪の御柱も、ルクソールの神殿の柱も、先端が同じように削られているといいます。
御柱祭では、諏訪大社の四隅に高い柱が建てられますが、これは4本の柱で結界を張って聖域をつくるということを意味しています。現代でも建築工事の前に地鎮祭が行われ、そこで4本の竹を建てて注連縄を張りますが、それも同じ流れを汲むものです。
この柱を4本立てるというのは、エジプトの古王朝から始まった習俗です。
「物神柱(ものがみばしら)」といい、古代エジプトの王であるファラオがどこかに行くときには、予め、物神柱を4本立てて、その地区を聖域化する、ということが行われていたそうです。
4本の柱は、それぞれ、ふくろうの神、ハヤブサの神、犬神、気神の依り代だとされています。
この4本の柱に宿る神様のうち、ふくろう神をエジプトでは「マシャ」と呼びました。それがインドでは「ガダ」と呼ばれるようになり、日本では、それをくっつけて「ガダマシャ」と呼ばれるようになりました。それが次第になまって「ガダマシャ」→「カドマツ」となり、漢字の当て字で「門松」に変化したと考えられるそうです。
門松はもともと松であるとは限らず、地方によっては杉であったり、椿であったり、さまざまな木が使われて来たことが民俗学的な調査で確認されているとのこと。「松」は単なる音をあらわしていたにすぎないようです。
来年の干支は酉(とり)。古代世界ではさまざまな鳥が聖なるものとして崇められてきましたが、代表的なものが、フクロウ、鷲、白鳥だそうです。
シュメールでは、火山女神ニンフルサグを守る聖なる鳥としてフクロウが描かれています。
日本でもフクロウの彫像などを各所に見ることができます。
池袋のマスコットとしてフクロウを彫刻がつくられたりしていますが、これも実は故なきことではない、と古代史ハンター坂井氏は言います。
池袋に大きな池などない。ということは、この「いけ」は「池」を意味しているのではなく、単に音をあらわしているに過ぎない、と考えるのが妥当である。では、「いけ」はどこから来たのかというと、シュメールの都市国家「uruku」→uku→ikeと変化したものなんだ、というのです。
シュメールの都市国家ウルクは、牛をトーテムとする部族の国家であり、その部族=牛族の守り神が、ふくろうである、といいます。
では、「ぶくろ」はどこから来ているか、というと、グビ・キ・ラム→ビキラム→ブクロと変化したものであるといい、シュメール語で、グビ=蛇、キ=蛇女神、ラム=4を意味するといいます。(「4」は蛇女神キを象徴する数字)
また、「沼袋」という地名もありますが、ここにも「沼」はなく、やはり音をあらわしていて、これはシュメール語で「至高なる」を意味する「ウベール」という言葉が変化し→ウバラ→ヌマになった、というのが古代史ハンター坂井洋一氏の説でした。

池袋・沼袋の話はさておき、諏訪の御柱の起源がエジプトにある、というのは、その形態と意味の共通性から考えても、きわめて腑に落ちる話です。日本の神話で神様を「一柱(ひとはしら)、二柱(ふたはしら)」と数えるのも、そこから来ているのですね。納得!