山野辺の道沿いの古墳の中でもひときわ大きいのが崇神天皇陵です。

第十代崇神天皇の時代には疫病が流行り、多くの人が病に倒れました。
その状況を打開するために、崇神天皇はさまざまなことを試みます。そのひとつが、宮中にある神器のよりよいお祀り場所を探すことでした。八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、この時に形代(かたしろ=写し)をつくり、形代を宮中に残して、外に出ます。そして最終的には八咫鏡は伊勢神宮へ、草薙剣は熱田神宮に落ち着くことになります。
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と、天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)が宮中から石上神宮に移されたのも崇神天皇の御代ですので、おそらく同じ理由からではないでしょうか。

しかし、それでも疫病はおさまらず、最終的には三輪山の神である大物主神の祟りであることがわかりました。大物主の神は、祭祀がきちんとされていないことが不満である、と崇神天皇の夢枕に立っておっしゃいます。自らきちんと祭祀を執り行っていたつもりだった崇神天皇は驚きます。大物主の神は、自分の祭祀を行うべきは大田田根子であって、崇神天皇ではない、とおっしゃったのです。

そこで大田田根子なる人物を探し出して祭祀を執り行わせると、祟りは鎮まり、疫病は収束して国に平穏が戻ったとされています。この大田田根子は大物主の男系の五世孫つまり息子の息子の息子の息子の息子、とされています(日本書紀では息子)。

神武天皇の后である伊須気余理比売(いすけよりひめ)は大物主神の娘ですので、崇神天皇も大物主神の子孫であることには変わりないのです。しかし、男系の子孫ではありません。大物主神が、自分の祭祀を執り行うべきは、大田田根子である、とおっしゃったのは、祭祀は男系子孫が行うべきものである、という意味だと解釈されています。これが皇統は男系継承されるべきひとつの理由となっています。

崇神天皇陵は濠に囲まれた前方後円墳です。「前方」の部分から参拝することができるだけで、周囲をぐるりと巡る道はありません。
前方後円墳はヤマト王権の象徴だとされています。ヤマト王権とは、それまで小国であった大和国(やまとのくに)が、北九州や吉備を含むいくつもの国々と連合王国を形成したものです。この山野辺の道のすぐ近くにある纏向遺跡(まきむくいせき)は、ヤマト王権の王都だと考えられており、おそらくは崇神天皇の頃につくられたとみられています。
そのため、纏向に近い桜井駅には「ヤマト王権発祥の地」の看板があります。

崇神天皇には「ハツクニシラススメラミコト」の名があり、これは連合王国となったヤマト王権としての初めての天皇、という意味だと考えられています。

崇神天皇陵を出て景行天皇陵へ向かう途中、伊射奈岐神社に通りかかりました。

この由緒書きによると、崇神天皇が疫病を鎮めるために八十萬(やおよろず)の神を祀る神社をつくったうちのひとつだということです。崇神天皇が疫病退散のためにあらゆる努力をしたことがわかりますね。




伊射奈岐神社を出て、景行天皇陵に向かいます。

この図で見ると、わたしたちは崇神天皇陵と景行天皇陵の下側の国道を歩いていたのですが、本来の山野辺の道は上の方、前方後円墳の後円部分に添って歩くようになっています。


いよいよ景行天皇陵です。





濠はぐるりと古墳を囲んでいるわけではありませんが、幅は相当に広いものです。
第12代景行天皇は歴代天皇の中でもっとも子だくさんの天皇で、80人もの子供がいたとされています。妃もたくさんいらっしゃったのでしょう。あるとき、大根大王という人の娘が大変に美しい姉妹である、という噂を景行天皇は耳にします。
ぜひ妻にしたいと思った景行天皇は、息子の大碓命(オオウスノミコト)に命じてこれを迎えに行かせます。ところがこの姉妹を一目みた大碓命は、すっかりほれ込んでしまい、自分の妻にしてしまいます。そしてまったく別の姉妹を代わりに天皇のもとへ連れて行くのです。天皇はその姉妹を見て、噂と違ってたいして美しくない、これは偽物ではないか、と思いますが、とりあえずその場で息子をあからさまに責めることはしませんでした。
しかし大碓命は後ろめたさがあるためか、いつもは天皇と一緒に朝食・夕食を摂るのに、そこに姿を現さなくなってしまいます。成長した有力な地位にある息子が、天皇に近寄ろうとしない、これは謀反でも企んでいるのか、と天皇は疑いの目を向けるようになります。これはいかん、と景行天皇は、大碓命の弟の小碓命(オウスノミコト)に命じて、兄にきちんと来るよう申し伝えさせます。
ところがいつまで経っても大碓命は姿を現しません。小碓命に訳を問うと、「手足をひき裂いて薦(こも)にくるんで捨てました」という答えが返ってきます。兄を殺してしまったのです。景行天皇の命令を小碓命が誤解したため、とも言われますが、ともかくその結果に景行天皇は恐れおののきます。この息子はヤバイ奴だ。傍においておけば自分もいつ殺されるかわからない、と思ったのでしょう。まつろわぬ熊襲健(くまそたける)兄弟の征伐に行くよう小碓命に命じます。熊襲健は小碓命に討たれながら、その勇猛さに感心し、ヤマトタケルという名を献上します。やっと征伐を終えて帰って来ても、景行天皇は今度は息子に東のまつろわぬ蝦夷(えみし)を退治して来いと命じます。途中伊勢神宮に寄ったヤマトタケルは伯母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に「父はわたしなど死んでしまえばよいと思っているのでしょう」と言って嘆きます。倭比売命(ヤマトヒメノミコト)はヤマトタケルに剣(くさなぎのつるぎ)と袋を授けます。第十代崇神天皇の御代に宮中を出た草薙剣は、第十一代垂仁天皇の皇女である倭比売命によって、伊勢神宮にもたらされていたのでした。
ヤマトタケルのその後は省略しますが、崇神天皇の行った事績がいろいろな事柄に関係していることが改めてわかりますね。