11月3日文化の日は旧「明治節」。明治天皇の誕生日です。
快晴となったこの日、明治の日本人の気概を象徴する建造物のひとつ「三笠」を訪ねて横須賀に行ってきました。
日露戦争当時、世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を破って世界を驚愕させたのが、旗艦三笠率いる日本軍連合艦隊でした。
現在では世界でもっとも古い3つの軍艦のひとつに数えられるそうで、貴重な文化財としてここ横須賀、三笠公園に保存されています。
日本軍の連合艦隊を指揮し、勝利に導いた東郷平八郎海軍大将。当時は「陸の乃木、 海の東郷」と並び称されたということで、乃木家傍系のわたしとしては多少のご縁を感じており、一度来てみたいと思っていました。
上は当時のままの甲板が残された部分。高級なチーク材が使われています。三笠は船自体は鋼鉄製ですが、船の甲板は木製。いまどきの船はすべて鉄製だといいます。
この部分の甲板は後年貼り替えられたもの。船首には日の丸が掲げられています。この船には全部で4つの旗ー日の丸と、海軍旗である旭日旗、大将旗、そしてZ旗(ぜっとき)ーが掲げられています。
三笠は蒸気船ですが、帆船の名残もとどめており、帆を張るための高いマストが立っています。ここに掲げられているのが、少し見えにくいですが、Z旗です。
Z旗のデザインはアルファベットのZの字をかたどったもの。アルファベットでZの次はなんでしょう? 何もありません。つまり、Z旗は「もう後がないぞ。これが最後だ!」という決意を示す旗なのです。
ロシアに敗けたら、日本は終わりだ。日本も植民地にされてしまう……当時アジアのほとんどの国が欧米の植民地という状態の中、日本の危機感は相当なものがあったと思われます。もし日露戦争で敗けていたら、日本はロシアの植民地となって、まったく別の歴史を歩んでいたのかもしれない……そう考えると、日本を守ってくれたこの船に感謝するしかありません。
Z旗をマストに掲げ、東郷司令官が言った言葉がこれ。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」この掛け軸は東郷平八郎直筆の書です。日本の存亡がこの一戦にかかっている、という悲壮な覚悟を胸に、船上の誰もが戦ったのでした。
艦橋(?)で、東郷司令官など高位の軍人たちが指揮をとっている様子を表した絵画。司令官などは本来は20cm?もの厚みの鋼鉄製の司令室の中で指揮をとることになっているのですが、それでは士気が高まらないだろうということで、東郷さんはこのような危険な場所に敢えて身をさらして指揮をとったのだといいます。
仮に鉄砲の玉に直接当たらなくても、鋼鉄製の船に玉が当たって跳ね返れば怪我をするため、ハンモックを壁などに巻き付けてクッションとしています。
東郷さんは大変に強運な人で、周りに負傷者が続出する中で、ひとところにじっと立ったまま、かすり傷ひとつ負わなかったといいます。
鉄の船体の一部が被弾でこんなにボロボロになってしまうような激しい攻撃の中、なんの防御もない場所に敢えて身をさらす東郷さんの気骨に感服です。
見るからにただ者ではない威厳を放っています。
こちらがぶ厚い鋼鉄の壁に守られた階下の指令室。
東郷さんの船室。左奥の箱状のものはベッド。東郷さんは身長153cm程度だそうですが、それを考えてもかなり小さいです。棺桶のように狭いところで寝ると腰痛になる、という実験を先日NHKのテレビでやっていましたが、まさにそんな感じ。大丈夫だったのかしら? そういえば、下士官などはハンモックで寝るようですが、そちらも腰痛には悪そうですね。
甲板から見た主砲。射程距離は10kmで、ここから千葉県の富津まで射程に入るとのこと。主砲の他にももう少し射程距離の短い大砲が2種類ほど、いくつも備えられていました。射程距離は短い方が命中率は高いそうで、主砲の命中率は10%程度だったといいます。
熱心に解説してくれたガイドの玉井さん。京都から江戸に都が移る前、本当は大阪が首都になるという話もあったのだけれど、それが東京になったのはなぜか? という話も最後にしてくれました。その理由とは……横須賀に近かったから。大阪が首都になれば、長崎の造船所から船を回して来るのには時間がかかり、いざという時に心もとない。東京ならすぐ近くに横須賀という造船所があるからよかったのだ、といいます。飛行機などなかった時代、船はそれだけ重要な輸送手段であり、軍備でもあったわけですね。